奥三河の歴史紹介
かつて死闘が繰り広げられた長篠・設楽原の古戦場をはじめ、
奥三河に残る様々な時代の史跡や寺社、伝統の文化をご紹介いたします。
歴史が好きな方におススメのお土産や、グルメの情報も盛りだくさん。
特集をご覧になったら奥三河に訪れて、是非この地の歴史文化に触れてみてください。
スポット紹介
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奥三河郷土館
道の駅したら内にある「奥三河郷土館」では、「奥三河のくらしとこころをつたえる」をテーマに設楽の自然と生きものたち、大地のなりたち、人々のくらしと社会のはじまり、歴史絵巻、民族を、テーマごとに見学することができます。古代から現代まで、奥三河の歴史文化を知りたい方は是非お立ち寄りください。
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花祭会館
国の重要無形民俗文化財である「花祭」は、700年前から伝承されてきた奥三河の民俗芸能です。東栄町にある花祭会館の館内には、花祭を知らない人にも分かりやすいように、お面、衣装、祭具、古文書や映像資料を用いてわかりやすく説明しています。また、祭りの臨場感を伝えるために作られた舞庭(まいど)には、衣装を付けた人形が配され、祭独特の雰囲気を感じることができます。鎌倉・室町時代から現代まで伝承される奥三河の民俗芸能を花祭会館でご体感ください。
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尹良(ゆきよし)親王像
(川宇連神社)尹良親王は、後醍醐天皇の皇子宗良親王の第二子とされますが、皇統譜にその名は記されず、伝説の親王と言われています。南北朝時代、父親の宗良親王と共に東国までも遠征して、南朝の再興に奔走しました。志半ばで戦死をされますが、奥三河各地には尹良親王が訪れた地に数々の伝承が残っています。豊根村にある川宇連神社は尹良親王が御祭神として祀られており、親王が食事をされた際に土に刺した蘇枋の箸が根付いたと言われる「ハナノキ」が現存しています。
奥三河の歴史を
語るうえで欠かせない
長篠・設楽原の戦い
長篠・設楽原の戦いとは、天正3年(1575)5月21日、三河国長篠城(現在の新城市)をめぐって、織田・徳川連合軍38,000と武田軍15,000との間で行われた戦いです。 この戦いは戦国の行方を「決める戦い」、文字どおりの決戦となりました。 戦いの舞台となった奥三河地域には当時の面影が今も色濃く残されています。
戦いの序章
元亀3年(1572年)、甲斐国・信濃国を領する名将武田信玄は、織田信長の同盟国である徳川家康の領国三河・遠江へ侵攻を開始し、三方ヶ原の戦いで徳川家康を破りました。翌4年(1573年)に三河国の拠点のひとつである野田城まで落とします。しかしここで信玄は病を発症し、甲府への帰還中に病没します。これによって武田氏は三河から撤兵を余儀なくされました。
これに伴い、家康は反攻を開始し、三河・遠江の失地回復に努めます。ここで、家康は奥三河における武田氏の勢力を牽制するため、有力な国衆である奥平氏を味方に引き入れることを考え、自身の長女・亀姫を奥平貞能の長男・貞昌と婚約させます。こうして徳川氏の家臣となった貞昌は、長篠城に配されました。
長篠城の籠城戦
武田氏の後継となった武田勝頼は、奥平氏の離反に激怒しました。勝頼は三河・遠江を再掌握すべく反撃を開始。天正3年(1575年)4月に15,000の大軍の指揮を執り、三河へ侵攻し、5月には長篠城を奪還すべく包囲します。城主の貞昌は500の城兵と共に籠城し、武田軍の猛攻を防ぎました。そして貞昌は、家臣の鳥居強右衛門を援軍の使者として岡崎にいる家康へ遣わします。強右衛門は深夜に城を抜け出し、65km離れた岡崎へ走り、貞昌の父・貞能を介し信長と家康の前へ出て、長篠城の状況を伝えました。そして織田・徳川連合の大軍が集結している様子を確認した後、この朗報を伝える為に長篠城へ引き返します。
しかし、城も目前というところで武田の兵に捕らえられてしまいました。城内に向かって「援軍は来ないと言え、そうすれば命を助け、武田の家臣として召抱えよう」と言われた強右衛門でしたが「援軍はすぐそこまで来ているぞ。もう少しの辛抱だ」と、城内の味方に向かって叫びました。強右衛門は磔になって殺されてしまいましたが、貞昌と城兵たちは「強右衛門の死を無駄にしてはならない」と奮起し、援軍が到着するまでの二日間、見事に城を守り通すことができたといいます。
設楽原の決戦
強右衛門の知らせを受けた織田軍30,000と徳川軍8,000は、天正3年5月18日に設楽原へ進撃しました。そして、戦国時代最強と恐れられていた武田の騎馬軍団に対抗するため、この地を流れる連吾川に沿って馬防柵を築きます。また、信長は武田軍を打ち破る為、3,000丁もの火縄銃を設楽原に持ち込んだといいます。
5月20日、信長は家康の重臣・酒井忠次を呼び、忠次の発案である長篠城包囲の要であった鳶ヶ巣山砦の奇襲を了承します。忠次は見事に奇襲を成功させ、織田・徳川連合軍は長篠城の救援を果たしました。さらに籠城をしていた奥平軍を加えた酒井奇襲隊は、設楽原へと進んだ武田軍の退路を脅かします。
5月21日早朝、設楽原では武田軍が織田・徳川連合軍を攻撃。当時最強と謳われた武田軍は、連合軍の放つ火縄銃の前に敗れ、名だたる名将・勇士を失いました。勝頼はわずかな兵に守られながら、武田方である田峯城を目指し敗走します。
この戦いにより、武田氏の勢力は大きく衰退し、織田氏の勢力は絶対的なものとなりました。こうして、戦国時代は終焉に向かっていきます。長篠・設楽原の戦いは、まさに戦国の流れを大きく変える戦いだったのです。
スポット紹介
武将ピックアップ
奥三河の徳川家康
ゆかりの地
2023年放送の大河ドラマ「どうする家康」(NHK)の主人公、徳川家康公。
その出生にまつわる伝承が残る鳳来寺から、織田・徳川連合軍と武田軍が激戦を繰り広げた長篠・設楽原の戦い古戦場跡など、
家康公ゆかりの地を、ここ奥三河で巡ってみませんか?
スポット紹介
鳳来寺
徳川家康は天文11年(1542年)12月26日の、寅年寅の日の寅の刻に、岡崎城で生まれました。岡崎城の城主松平広忠公と奥方である於大(おだい)の方が、お世継ぎの出来ないことを憂い鳳来寺に参籠し祈願したところ、その効あって元気な男の子、後の家康を授かったといいます。
鳳来寺の寅童子(とらどうじ)伝承
家康が生まれると、鳳来寺のご本尊である薬師如来を守護する十二神将像の内、寅の方角と刻を護る「真達羅大将(しんだらたいしょう)」が消えてしまいました。
その後、家康が亡くなるといつの間にか真達羅大将はもとの場所に戻っていたといいます。
この事から、家康は真達羅大将の化身「寅童子」と呼ばれるようになりました。
鳳来山東照宮
慶安元年(1648)4月、三代将軍徳川家光が日光東照宮に参詣した際、東照宮御縁記に「家康の父君広忠公が良い世継ぎを得たいと思われ、北の方(於大(おだい)の 方)とともに鳳来寺に参篭したところ、その効あって家康が授かった」と記されてあるのに感銘をうたれ建立を発願。慶安4年(1651年)四代将軍徳川家綱の時代に完成しました。
満光寺
満光寺は徳川家康が若かりし頃、武田軍に追われて逃走した際、この寺に宿をとり、鶏の声に命を助けられたという逸話が残されている古刹です。本堂に十一面観世音菩薩が祀られている、奥三河七観音霊場の五番寺です。
徳川家康本陣跡(八剱神社)
八剱(やつるぎ)神社は天正3年(1575年)5月、武田軍に包囲された長篠城を救援するため、徳川家康が本陣をおいて武田軍を迎え撃った場所です。
天正3年5月1日、武田軍は長篠城を攻めました。5月15日に長篠城の落城寸前の知らせを受けた家康は、織田信長とともに設楽原へ出陣し、5月18日に到着して「高松山・八剣高松山、弾正山」などと呼ばれたこの地に本陣を構えたと伝えられています。
歴史好きに
お勧めのお土産
奥三河の御城印
御城印とは、お城を訪れた際にいただくことができる登城記念証。和紙などに、城名や古戦場名、城主の家紋などがデザインされています。戦国時代の面影を色濃く残す奥三河には、日本100名城の「長篠城」や続日本100名城の「古宮城」など、山城ファンや歴史好きにはたまらない魅力たっぷりな城跡や古戦場跡地がたくさんあります。
各地を巡る記念に奥三河の御城印を集めてみませんか?
御城印の注意点
御城印は、寺社でいただける「御朱印」とは異なります。御朱印帳に直接書いていただくことはできませんのでご注意ください。
また、御城印によって頒布場所が異なります。施設の開閉状況等、あらかじめご確認ください。
◆ 新城市の御城印
◆ 設楽町の御城印
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田峯城
- 【頒布場所】
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長江城 / 清水城 / 小鷹城 / 湯谷城 / 田峯城 /岩古谷城 / 田内城 / 寺脇城 / 鍬塚城 / 津具城
- 【頒布場所】
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・道の駅したら2階 設楽町観光協会事務所(セット売り・バラ売り両方可)
・道の駅したら1階売店 清嶺市場(セット売りのみ)
・愛知県奥三河総合センター1階 (一社)公共施設管理協会事務所(セット売りのみ)
武将印
武将に特化して、その名前や家紋などがデザインされた「武将印」。新城市にある設楽原歴史資料館では、長篠設楽原の戦いに縁のある10名の武将の武将印を頒布しています。
頒布場所
◆ 新城市の武将印
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織田信長 / 徳川家康 / 羽柴秀吉 / 本多忠勝 / 酒井忠次 / 武田勝頼 / 馬場信春 / 内藤昌秀 / 山県昌景 / 奥平信昌
- 【頒布場所】
歴史好きに
お勧めのグルメ
奥三河の歴史スポットに訪れたら、あわせて楽しんでいただきたいグルメをご紹介♪
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家康鯛天丼
長篠陣屋食堂(長篠設楽原PA下り線)
ふっくら柔らかな天ぷらでボリューム満点!家康公の好物だっとされる鯛の天ぷら。大きめにカットされた国産の天然真鯛の天ぷら2枚をメインに、季節の野菜の天ぷらも盛り込まれており、贅沢な素材の味とボリュームに大満足できます。
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長篠合戦ソフト
長篠陣屋台(長篠設楽原PA下り線)
まるで口の中が合戦場!?舌の上でパチパチと弾ける食感のトッピングを使い、長篠合戦を表現したユニークなスイーツ。あっさりとして滑らかな牛乳ソフトクリームも美味。
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わさび丼
JA愛知東東栄直売所
徳川家康公の大好物「わさび」。江戸時代、徳川家康公は献上品のわさびの味を絶賛し、わさびの葉が家紋の「葵」に通じることから、江戸幕府の庇護を受けることとなったともいわれています。JA愛知東東栄直売所で食べられる「わさび丼」は東栄町産の本わさびが丸丸1本付いてくる贅沢なもの。鮫皮おろしできめ細かくすりおろしたワサビは香りと辛さがいっそう引き立ちます。
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しんしろ茶「なごみ」
レインボーのお菓子やさん
家康ゆかりの地 新城で巡る「新定番 お土産菓子決定戦」で1位を獲得したお土産スイーツ♪丁寧に挽いたほうじ茶の香り豊かなパウンドケーキと、バターたっぷり!可愛らしい葉っぱの形をした緑茶とほうじ茶のクッキーを詰め合わせいたしました。
豊かな自然の中で育まれた新城茶をふんだんに使用したお土産を、大切な方への贈り物にいかがでしょうか?長篠設楽原PA下り線、道の駅もっくる新城でもお買い求めいただけます。 -
馬防柵さつまいもスティック
長篠設楽原PA下り線
織田・徳川連合軍が武田騎馬隊に対して組織的に火縄銃を使った戦術を用いたことで有名な「長篠・設楽原の戦い」。この戦いで重要な火縄銃の威力を引き立てた陰の主役と言うべきアイテムが「馬防柵」。「馬防柵さつまいもスティック」は、細切りにした新城市産のさつまいもを馬防柵に見立てています。さらにケースの底面は芋スティックがすっぽりとはめられるような仕掛けがあり、決戦の舞台となった「設楽ヶ原」に様変わり!
道の駅もっくる新城、道の駅鳳来三河三石、道の駅したら、長篠設楽原PA下り線でお買い求めいただけます。 -
決戦場米
長篠設楽原PA下り線
長篠設楽原の戦いがあった地域、新城市東郷地区で育成されたあいちのかおりを「決戦場米」と銘打ち、食べやすい2合分、キューブ上にしてお土産として販売。
このお米は、やや大粒で食べ応え抜群!しっかりとした食感を楽しみながら噛むたびに、ほのかな甘みが口の中へひろがります。
戦乱の世から受け継がれてきた水田で育てられたお米を食べて、想いを受け継ぐことを供養に、歴史に思いを馳せましょう。
五平もち
五平餅(ごへいもち)は、昔からこの地域に伝わる郷土食で、つぶしたごはんを串焼きにして、味噌などのタレを付けたものです。 江戸時代中期頃から山村に暮らす人々によって作られていたものが起源で、神道において神に捧げる神祭具「御幣」の形をしているからその名がついたと言われています。 お米が貴重であった時代、「ハレ」の行事の食べ物として祭りや祝いの場で食べられてきました。 お店によって自慢の味や形があり、それぞれの個性が楽しめます。奥三河の食を語るうえで欠かせない伝統グルメを、是非ご堪能ください♪